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虐待10
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    JUGEMテーマ:毒親

     

    おはようございます。

    昨夜は、中秋の名月でしたね。

    こちらはよく晴れて、とても美しい月を堪能しました。

    今夜は、今年一番月の小さい夜だそうです。

    うっかり写真を撮り忘れてしまったので、今夜こそ。

     

    さて、昨日の続きです。

     

    もしかして、このブログを読んでる方で、同じような思いを、された方がみえますか?
     
    ちょっとしたことで、子供に手をあげてしまって、罪の意識にさいなまれている方。
     
    「手をあげる」=「虐待」ではないと、私は思います。
     
    子供はペットではないですから、自分がこの世を去った後でも、しっかり自分の足で立って、生きていかなくてはならない。
    だから、悪い事をしたとき、それが本当に危険なとき、もう2度としないようにと、体にもわからせるためにも、ある程度の事は、必要だと、思っています。
    そうして叩く時は、叩く方の手が、心が、もっと痛いはず。
    子供によっては、じっとしていない、すぐに危険な事をする子供も、いるでしょう。
     
    私があの時、子供を叩いた時、私の心も痛んでいましたが、あれはあきらかな虐待です。
     
    でも、もしか、私と同じような状態にあって、今、悩んでいる方がみえたら。
     
    自己嫌悪に陥らずに、自分を責めずに、まず、自分自身を振り返ってみてあげてください、と伝えたいです。
     
    あなたの中に、置き去りにされた子供はいませんか。
    満たされないあなたはいませんか。
     
    きちんと満足に育ててもらったのに・・・なんていうのは、理由にはなりません。
    暴力をふるわれたことがなくても、金銭的に満足していても、受けた行為がどういう意味をもつのかは、その行為を受けた人間の、受け取り方次第で変わってきます。
     
    両親が十分に愛情を注いでくれていたとしても、あなたがそれに気づかなければ、それは愛情を受けなかったのと、同じことだと思います。
     
    まずは自分自身を振り返って、自分を満たして、愛してあげてください。
     
    もう、あなたを愛するべきだった存在がいないのなら、
    あなた自身があなたを満たしてあげてください。
     
    あなたにはそれができます。
    あなたの世界を変えることができるのは、あなたしかいません。
     
    あなたが変わろうと思った時、手を差し伸べる人はきっと沢山います。
     
     
    今、マスコミでは「手をあげる」=「虐待」という勢いで、学校でも職場でも、
    いい意味で、怒ってくれる人がいないような気がします。
     
    繰り返しになりますが、
    私は両親から、一切の暴力を受けていません。
    それどころか無断で朝帰りしたときも、家出から戻った娘が水商売をしていたと知った時も、怒りさえしませんでした。
     
    必要な時に、必要な体罰は、罪ではないとさえ思います。
    必要な時はきっと、きちんと相手を見ていればわかるはず。
     
    偉そうな事を書いている自覚はあります。
    きっとあとから、顔から血が吹き出そうなほど恥ずかしくなるに決まっていますが、敢て書きます。
     
    私は今も、一生懸命、子供を見ようと頑張っています。
    必要ならば、親の権限で、泣かせることもあるでしょう。
    私がこの世を去ったあと、この子がきちんと、自分の人生を歩んでいける為に。
    子供に、「あなたは私の誇りなのだ」と、伝えるために。
     
    何度でも書きます。
    「あなたを、愛しています。生まれてきてくれて、ありがとう。」
     
    朝の散歩で見つけた、秋の紫陽花です。
    | 虐待について | 07:23 | comments(0) | - |
    虐待9
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      おはようございます。
      昨日の続きです。
      それから徐々に、私の、息子に向かう気持ちが変わっていきました。
      「きちんと子育てしなくちゃ。」から、
      「この子と、一緒に生きていきたい。」へ。
       
      授乳は、3時間あけて、と病院では言われたけれど、息子を見て、おなかが空いているならいつでも、好きなだけ。
       
      「私はばい菌じゃないんだから。」と、消毒するのもやめました。
       
      急いで、子育てしなくていい。
      私は、私と、この子のペースで、成長していけたらいい。
       
      息子が半年の時、主人が転職をすることになり、とりあえず、主人と息子と私の3人で、引っ越すことになりました。
       
      息子が2歳半になるまで、私は仕事をしていませんでしたから
      (前述した、着物の小物づくりはすでに行っていましたけど)
      ずっと子どもと一緒に過ごすことが出来ました。
       
      一緒に畑に出て、蟻を眺めながら時間を過ごしたり、
      「おぉ、おぉ!」と、何かを見て喜ぶ赤ちゃんと一緒に、
      「おぉ、おぉ!」と、おんなじポーズをして、遊んだりしました。
       
      今思いかえしても、かけがえのない、幸せな時間を過ごしました。
       
      それが、ちょうど息子が一人で歩くようになって、少し言葉もしゃべるようになった頃です。
      嬉しそうに、笑う息子を見て、何かが私の中で、ぴきぴきと音を立てるようになりました。
      庭でとれたきゅうりを持って、幸せそうに笑う息子。
      近所の人からもらったサツマイモを、満面の笑みで私に見せに来る息子。
       
      ある日、ほんの些細な、だれでもするような、ほんの些細ないたずらで、
      私の中の何かがはじけました。
       
      気が付くと、ものすごい勢いで息子を怒鳴りつけていました。
      突然の事に何が起こったのかわからずにいる息子の滑らかな頬に、手を上げようとして、すんでのところでそれは勢いをそいで、軽く触れる程度になったけれど、
      それでも「叩かれた」恐怖を息子に与えるには十分なようでした。
       
      怯えた息子を見て、わけもわからず、私はもっともっと逆上していきました。
       
      これを書いても何の弁解にもならないでしょうけど。
       
      私はその時、もの凄い恐怖に、また子供に手をあげてしまった後悔の念に、さいなまれていたのです。
       
      息子が怯えて、泣き出すと、私は収まるときもありましたし、さらに怒ってどなることもありました。
       
      そしてその後、激しい自己嫌悪に陥るのが常でした。
       
      カッとして、怒鳴る→自己嫌悪に陥るの繰り返し。
       
      出口のないトンネルのように。
       
      もし今時間を戻せるのなら、私は迷わず、あのころに戻りたい。
      戻って、怯える息子を、抱きしめて、耳を塞ぎたい。
      私がそれまで、大切に大切に築いてきた息子との時間。
      出来る事なら、あの時の私を、刺殺してしまいたい。
       
      でも、もう、何を言っても弁解できませんが、今なら、あのころの私のすぐ背後に、
      私の、小さな子供がいるのが視えるんです。
       
      地団駄を踏んで、泣きながら、
      「どうして、この子ばっかり幸せなの。」
      「どうして、私はこんなにさびしいのに。」
       
      それでも、子供の心に遺したであろう傷を、正当化する理由にはなりません。

      JUGEMテーマ:毒親

      | 虐待について | 06:08 | comments(0) | - |
      虐待8(出産のこと)
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        y

         おはようございます。
        千葉の方たちは、大変な状況のようですね。
        ニュースでも、あまり取り上げられていないけれど、実際はもっと大変な状況なのだというtwitterを受け取り、何も知らずに、いつもの朝を迎え、いつものようにブログを書いていた、自分を恥ずかしく思います。
        私のできることは少ないですが、少しばかりの義援金募金と、今朝は長めにレイキでお祈りをいたします。
        職場の方で、行ける限り被災地へ赴く行動力のある方がいるのですが、なかなかできない行動です。
        非力な私をお許しください。
        とりあえず、今の私にできること。
        自分の生活を、まずはしっかりと運営していくことですね。
        今日は、出産について、書きます。
         
        「カンガルーケア」って、ご存知ですか?
         
        出産後、へその緒を切らずに、生まれた赤ちゃんを、お母さんのおなかの上に乗せる、というものです。
        そうするとお母さんの中の母性が自然に育つらしいです。
         
        出産のシステムが整って、衛生的になって、出産で亡くなる人は、随分少なくなったらしいですね。
         
        でも、人間だって哺乳類なのだから、
        出産後すぐに赤ちゃんを抱っこしたりしないと、母親は無意識のうちに、
        「子供は死産だった」と、思うらしいです。
        それが原因で、育児ノイローゼに陥る人も結構多いのだとか。
         
        私はまさにその、育児ノイローゼになりました。
         
        出産前まで働いていたことや、その後も忙しくしていたこともあるのかもしれません。
        私は、特に何も考えずに、近所にあった、親たちの言う、「評判の良い」総合病院で出産しました。
        後で聞いた話、その病院は、「帝王切開など、手術を伴う出産に評判の良い」病院でした。
         
        その日、たまたま出産が重なっていて、簡単にお産の済んだ私は、赤ちゃんに一目も会えないまま、ぽつんと、病室に夜までのこされていました。
        夕食をもってきてくれた看護婦さんに、
        「赤ちゃんは?」と聞くと、
        「あら、まだ会ってないの?」と驚かれて、慌てて、息子を連れてきてくれました。
        出産後、12時間後の事です。
         
        その後の一週間、3時間おきに、
        薄暗い廊下を、産後の重い体をひきずって、授乳室に行って授乳をします。
        赤ちゃんに触れることができるのは、その3時間ごと、時間にしてわずか510分のこと。
        それ以外の時間は赤ちゃんは衛生的なガラス張りの「赤ちゃんルーム」に、
        お母さん達は「病室」に。
        親戚などが赤ちゃんを見に来てくれた時は、病院の廊下から、ガラス越しに、
        「あ、ほら、あの右から3番目のベッドの子がうちの子よ。」
        という具合です。
         
        退院後、赤ちゃんを渡されて、
        「え、これ、持って帰るの・・・?」というのが、正直な私の感想でした。
         
        もちろん、これは私一人の感想で、同じ病院で出産された方で、立派に子育てをされてる方は沢山います。
        近代の、衛生的な出産によって、死産の赤ちゃんが劇的に減ったのも事実でしょう。
        ただ、「出産は病気ではない」「赤ちゃんは工業製品ではない」として、
        自然な分娩に近い出産を、自宅などで行っている方も沢山います。
         
        家に帰って、今度は3時間おきではなく、24時間べったりと赤ちゃんと向き合う事になった私は、途方にくれました。
        わけもわからず、いらいらしたり、泣き止まない赤ちゃんに、どうしていいかわからず、
        泣き叫ぶ赤ちゃんを壁に投げつけたくなったり
        (お忘れですか、もともと私はへヴィメタのドラマーです。)
        赤ちゃんを抱っこしてベランダから飛び降りたくなったりしました。
        産後、いつまで経っても微熱が続いて、体がだるかったのも一因かもしれません。
         
        そうして毎日ぼろぼろになりながら、3か月が過ぎたころ、
        「このままでは死ぬな・・・。」と思って眺めていたテレビで、
        「カンガルーケア」の事を知ったのでした。
         
        カンガルーケアの他にも、心の余裕を取り戻させる内容の番組で、
        それまで病院で言われた、
        「授乳は3時間おきに。」
        「授乳の前には乳首を消毒」
        など、細かい決まりを守る事にやっきになっていた私は、
        見終わる頃には赤ちゃんが泣くのも気が付かないほど、涙を零しながら見ていました。
        今朝目が覚めたら、こんな美人が枕もとに寝そべっていました。
        うちは、犬も雑魚寝なのです。
        最初、引っ越してくるとき、素敵なベッドを買おう!なんて思っていたのですが、
        クロがやってきて、一人で寝るのを寂しがるので、一緒に寝るようになって、どうせぐちゃぐちゃになるのだから、と、古い布団をそのまま使っています(*´σー`)エヘヘ
        朝から見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません_(._.)_
        幸せないつもの朝を迎えられたことに、感謝ですね(#^.^#)

        JUGEMテーマ:毒親

        | 虐待について | 05:53 | comments(0) | - |
        虐待7
        0
          23歳の時、それまで昼間に勤めていた洋服店が店じまいをすることになり、
          ああ、もうそろそろ覚悟を決めて、夜の仕事一本にするかなあ、と思っていた所でした。
          小学校の時に参加していた馬のキャンプ場から、OB会のお知らせが届き、なんとなく参加したところで、一人の男性に恋をして、その人の、一言で、夜の仕事を辞める決心をしました。
          私は初めて母に意見をして、その後、両親は離婚しました。
          私は自分が結婚できるとはとても思っていませんでしたから、一生、母と二人で生きていく、という覚悟を、無意識のうちに決めていたように思います。
           
          それが、今の主人に出会って、まさかの結婚、あっという間に子供を授かり・・・。
          妊娠6か月まで、職場で働いて、退職しました。
          時間が出来て、体調もすこぶる良くて、
          私は、生まれてくる赤ちゃんを想いながら、
          ガーゼの布で、ちくちくと、肌着を縫ったり、鬼門だった編み物で、赤ちゃん用のベストを編んだりしました。
           
          この当時、主人も、私の母親を引き取って、という言い方はおかしいかもしれませんが、一人になった母を生涯面倒をみる覚悟だったと思います。
          母と、私と、主人で一緒に暮らしていました。
          母は、離婚後も会社を父とやっていました、ただ、暮らすところが違うというだけで、以前とあまりかわりませんでした。
          以前ほど、店には出ず、家にいることが多くなっていましたから、
          体も楽になったのでしょう、
          朗らかで、良い母親の事が多かったですが、
          それでも
          「○○さん(夫)は、私の事が好きみたいよ、いやらしい目で私を見てるもの。」
          とか
          「あの人(父)に言われて、お金を振り込みに行ったんだけど、なんか、銀行のATMのカメラが、全部私の方を向いてるみたいなの、もしかして、あの人が何か悪い事してるんじゃないかって、銀行で監視しているんじゃないかしら。」
          など、
          今から思えば、少し常軌を逸した発言がありましたが、
          私には、以前ほど、気になりませんでした。
           
          もう、私は一人じゃない。
          そう、おなかの子供が、教えてくれていたのでしょう。
           
          長男には、この頃から、いつでも、今でも、救われっぱなしです。
           
          今、こうして手作りの夢を持って、幸せな生活を送っているのも、
          この、息子の為に編んだ、肌着が原点にあるからです。
          望んでいながら、どこかで諦めていた自分の家庭を持つことが出来て、
          一応、何不自由なく育ててもらって、
          何故、私は、愛する長男に虐待をしたのか。
           少なくとも、子供を妊娠した私は、とても幸せでした。
          今朝の、散歩の、愛犬です。
          名前を読んで、駆け寄ってくる愛らしい姿・・・こ、こわい?
          | 虐待について | 06:08 | comments(0) | - |
          虐待6(あふれた水)
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            おはようございます。
            昨夜は結構な熱帯夜でした。
            夏が去ると思うと寂しい、なんて言ったけれど、まさか戻ってくるとは思わなかったからの発言だったな、と、
            今更ながら思います。
            さて、気が重いですが、一個前の記事の続きです。
            表面張力いっぱいに張った水があふれ出したのは、いつごろだったのでしょうか。
             
            中学校に入って、転校生の友人に誘われてバンドを始めた私は、そのころから、家を空けることが多くなっていきました。
             
            夜遅く帰宅しても、母は私の顔を見ると
            「ねえ、聞いてよ。」
            と、父親の悪口か、あるいはお客さん、店の女の子の悪口。
            一度、「私の事は怒らないの?」と聞いたことがあります。
            母の答えはあっさりと、
            「あんたの事は信用してるから。」でした。
             
            親になって思うのですが、子供だからという理由だけで、そんなに簡単に信用できるものですか?
             
            私が全く家に帰らなくなったのは、高3になってすぐぐらいの事です。
             
            その頃、組んでいたバンドが、解散することになり、私は、バイトに明け暮れる理由を失いました。
             
            つい半年前まで、私の高校卒業を待って、東京へ行こうと、話していたバンドです。
             
            レコーディングをしてデモテープを作ったり、ライブハウスや、イベントに出場したりして。
             
            原因は、音楽性の違い、と言っても、そんな確固たる音楽性があったわけでもなく、
            皆女の子で、お年頃でした。
             
            バイトもバンドもなくなって、でも私は家に帰りたくなくて、その時、誘って下さったバンドや、他に嬉しい引き取り手もあったのですが、(バイト先の先輩にプロポーズされました♪…つきあって、ないですよ?・・・でも、おばさんの「昔はモテたのよ〜」的な与太話は割愛します。)
            友人の家に身を寄せる事にしました。
            その友人は母子家庭で、お母さんが、一階で小さなスナック、二階を住居にしていました。
            お店の裏の、和室、通商「ママが気に入ったお客を引き込むスペース」が空いているというので、ご厄介になることに・・・。
             
            私は、ただごやっかいになるのは悪いから、と、昼は学校、夜はお店に出てお手伝いするようになりました。
            危惧していた男性恐怖症も、性的な体へのタッチも、すべて、「接客」という仮面を被れば兵器でした。実生活でも、「恋人」という仮面があれば、平気だったかもしれませんね。
            小さい頃からお酒に馴染んでいたのが良かったのか、どれだけ呑んでも酔うことはなく、一晩で、ワイルドターキー一本あけてしまうこともありました。
             
            その後、3か月ほどで、ママの知り合いのお店に移り、そちらの店のママの所にご厄介になり、そののちに、上海からの留学生(昼は美術大学の学生で、夜はホステス)と一緒に暮らすようになり、家に戻ったのは9か月後です。
             
            母は、私が、家出中、ホステスの仕事をしていたと知って、怒ることはしませんでした。
             
            母が放った一言は、
            「いくら、稼いでるの?」
            でした。
             
            不景気の影響もあり、また、派手好き、遊び好きの父の経営は、大きく傾いていました。
            結局、私は、高校卒業後、昼は本屋で働きながら、夜はホステスという、2足のわらじを、途中、19歳の時に一旦声が出なくなって休止しながら、23歳まで続けました。

            JUGEMテーマ:毒親

            もうだいぶ、朝の散歩の空が暗くなってきました。
            これから徐々に暗くなって、朝も星の綺麗な季節になります。
            一旦涼しくなってからの暑さは、体にこたえますね。
            皆様も熱中症など、お気をつけて
            | 虐待について | 05:43 | comments(0) | - |
            虐待5
            0

              JUGEMテーマ:毒親

              おはようございます。
              飛び飛びですみません。
              一個前の記事の続きになります。
              実家の接客を通して、人と話すことが怖くなくなってきたわたしは、
              小学校でも、前よりずっと、人と接することが上手くなってきました。
              「接客」という仮面に加えて、「同級生」という仮面を被れば、恐れることなく人と話すことが出来るようになりました。
              友達も、少ないながら出来て、「猫が見たい」と言って、家に遊びに来てくれるようになりました。
               
              母は、私が幼かった頃より、仕事を人に任せられるようになっていて、前より、家にいることが多くなっていましたから、友人を連れて行くと、ちょっと友人と話をしたりすることがありました。
              そんな時、友人が返った後で必ず母は、
              「○○ちゃん、きっとママに会いたくて、来るんだね。」
              と言うのでした。
               
              家にいるようになった母とは、会話が増えましたが、それは決して私には嬉しいばかりではありませんでした。
              店にいる時の母はいつも笑顔で、快活でしたが、母も多分「接客」という仮面を被っていたのだと思います。
              友人は私の知る限り一人もおらず、かつては仕事にしていた編み物を趣味にして、話し相手は娘一人だけ。
              父とは、私の方が一緒にいる時間が多かったように思います。
              一度も、声も手も荒げたことはありませんでしたが、常に頭痛がするようで、
              口をひらけば父親の愚痴と、自分がどんなに価値のある人間だったか。
              そしてひとしきり話し終わると、
              最後に
              「あんたは、大丈夫。あんたの事は信頼してるからね。お父さんの事で手一杯なんだから、あんたまで迷惑かけたりしないでね。」
              「あんたはお父さんに似てかわいそうねえ。お母さんに似ればよかったのに。」
              「いい、あんたは不細工なんだから、あんたに言い寄ってくる男がいたら、何か魂胆があるのよ。」
              「男なんて絶対に信じてはだめ。」
              「男ってひどい生き物よ。」
              「あんたはお母さんの味方よね。」
               
              母が父親の悪口を言う時、私はちょっと、嬉しかったのも事実です。
              母はどんなに疲れているときでも、私が、父の悪口をしむけるといつでも嬉々として話に乗ってくれました。
              そうすることで、私は大好きな母を独り占めできる気がしていたのです。
               
              それと同時に、ちょっと複雑な気持ちでもありました。
               
              母にとって他人の父は、私にとっては血を分けた肉親でしたから。
               
               
              私はだんだんと、注がれる母の言葉によって一杯になっていきました。
              コップ一杯に張った水を零さないように、
              その頃の私は、静かに、静かに生活していました。
              昨日のU18の試合、凄い風でしたね。
              うちでは、見たい野球の試合など、録画してじっくり見るので、まだ見る前からネットで試合結果などを知らされると、
              「あーっ!!」ってなります。
              池田くんも、奥川くんも、石川くんも、みんなカッコいいな。
              あれだけのプレイをするのに、一体どれだけの練習を積み重ねているんでしょうね。
              昨日の午前中、夫婦で薪の材料をもらいに行ってきました。
              全部でたぶん、1.5tぐらい。
              一生けん命トラックに積み込みながら、
              「奥川くんたちはもっとつらい練習を、毎日してるんだ。頑張れ私!」と、汗まみれで頑張りました。
              (大げさ・・・?)
              「あげるよ、」と言ってくれた人には「ゴミの山」
              でも、私たちにとっては、「大切な冬の燃料」です。
              薪ストーブで焼く、ピザ、ローストチキンなど、冬はもうすぐです・・・か?
              | 虐待について | 06:12 | comments(0) | - |
              虐待4(仮面のはなし)
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                小学校に入っても、相変わらず友達はできませんでした。
                小学校では同じ幼稚園、保育園同士の友達のグループが出来ていましたし、仲間入りできるような快活さもありません。
                それどころか、話しかけられても、舌がもつれて、上手に話すことが出来ずにいましたから、私は休み時間も、教室の片隅でじっと本を読んでいる生徒でした。
                家に帰れば、猫がいました。
                一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入り、一緒に寝る。
                夕方は相変わらず、お店の片隅で本を読んだり、絵を描いたりして過ごしましながら、
                店員の女の人の話すのを聞くうち、どんどん、商品に関する知識だけは豊富になっていきました。
                 
                やがて、何かを探すお客様を見て、私は接客の真似事をするようになりました。
                店員のお姉さん、或いは母親の真似をして、商品の説明までするようになると、小さな子供の姿にお客様はほっこりするようで、積極的に話しかけてくれるようになりました。
                「店員さんの真似事をすれば人とスムーズに話すことができる。」
                 
                私は、「接客」という仮面をひとつ、手に入れたのです。
                 
                それから、徐々に、私は変わっていきました。
                 
                上得意のお客様が、土日もお店にいて、時々接客をする私を不憫に思って、遊びに連れて行ってくれるようになりました。近場の遊園地とか、動物園など。
                子供のいないご夫婦に連れて行ってもらったこともありますが、一番色々頻繁に連れて行ってくれたのは、
                「仕事が忙しくて、恋人を作る時間もない」という会計士をしている30代半ばの男性で、
                背が高く、まるで棒のようなスタイルでしたから、私は、「オズの魔法使い」のかかしさんみたいだなあ、とひそかに思っていました。
                 
                小学生4年生ごろから、店に立つようになった私を見て、父が、いろんな習い事に、私も連れて行ってくれるようになりました。
                父は多趣味な人で、移り気で、私が一緒に行った習い事だけでも
                ゴルフ、ウィンドサーフィン、ヨット、スキー、テニス、フェンシング、ビリヤード、などなど。
                どれも父に連れられていくだけで、興味は持てませんでしたが、乗馬だけはとても気に入って、乗馬クラブに入会して週に1.2回通っていました。
                私が乗馬をすることを知って、その会計士の人は、自分のコネをつかって東京の、オリンピックの馬術の選手に合わせてくれたりして、私にとってやさしい、「あしながおじさん」のような存在でした。
                「仕事が忙しくてお金を使う暇がない」というので、帰りには、毎回、ちょっと子供にはどうかと思うような高価なおみやげ・・・アクセサリーとか、をプレゼントしてくれました。
                帰って、それを見た母が、
                「あの人、私に気があるんだわ。」と言ったのを覚えています。
                「将を射んとすればまず駒から、ってね。」
                「いやらしい、本当に男っていやらしい。」
                人と社交的に話すようになった私に、母も積極的に、自分の内面を吐露するようになってきました。
                自分が、私の父親である男と結婚することになったのは、
                「お前のお父さんにレイプされたからだ。」という告白をうけたのもこのころです。
                「私には、他に結婚を約束した人がいたのに。」と。
                「今でも、その人を愛している。」と。
                 
                さて、今日はここまでです。
                台風がどんどん来て、夏ももう終わりですね。
                 
                涼しくなると、嬉しいけど、
                私、お客様にお茶をお出しする時の、からんからん、という氷の音が好きなんです。
                 またしばらく聞けなくなると思うと、ちょっと寂しいですね。
                氷にできる、虹を見るのも大好きです♪
                | 虐待について | 05:55 | comments(0) | - |
                虐待3(みーにゃのこと)
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                  JUGEMテーマ:毒親

                  おはようございます。
                  今、こちらでは、激しい雨、昨夜は激しい雷も鳴っていました。
                  気持ちの塞ぐ、ブログを書いているので、雷が怖いです。
                  もう、途中で書くのやめようかな、と思う内容ですが、もう少し、あと4回ぐらい、書きますね。
                  もともとは、10回ぐらいになるかな、と思っていたのですが、早朝から書く内容ではないようなのも(シャレではありません)入ってくるので、その部分は割愛して、私なりに、虐待への理由を、見解を、単純に私個人の経験から書こうと思っています。
                  店の裏には、よく、野良猫が集まってきたりしていました。
                  私も時々、猫を見かけて声をかけるのですが、野良猫は私の姿を見ると、さっと逃げて行ってしまいます。
                  そんな中、ある一匹の猫と出会いました。
                  その猫は、
                  店の裏で、小さくうずくまっていました。
                  「猫ちゃん。」と声をかけると、小さな声で、「み〜・・・にゃあ」と鳴き、私が近寄っても、恐る恐る頭を撫でても、逃げようとはしませんでした。
                  慌てて近所のスーパーで買ってきた餌をあげて、よしよしして、私たちはすぐに仲良くなりました。
                  みーにゃという名前をつけたその猫は、黒・・・真っ黒ではなくて、ロシアンブルーのような、ちょっとグレーがかった黒で、艶のない、まるで生まれたての雛のようなふわっふわの、ぱさぱさの毛をした、やせた小さな猫でした。
                  最初、子猫だと思ったのですが、もしかしたらもう結構大人だったのかもしれません。
                  毎日、毎日、幼稚園から帰ってくるのが楽しみになりました。
                  餌をあげて、隣に座って、その日に会った事を、一方的に話します。
                  餌を食べ終わっても、猫はどこへも行かず、じっとうずくまって、聞いてくれているようでした。
                  のどの下をなでると、弱く弱く、でも、ゴロゴロと喉を鳴らしました。
                  背中は、驚くほどに痩せていて、撫でると、手のひらに背骨のひとつひとつがはっきりとわかるぐらい。
                  餌をあげてもあげても、みーにゃは全く太りませんでした。
                  毛はぱさぱさで、ふわふわ。濡れたティッシュで拭ってもぬぐっても、目やにがいつもついていて。
                  ある日、いつものように幼稚園から帰って、猫缶を片手に
                  「みーにゃ」と呼ぶと、店の裏の物置の下から、みーにゃが出てきて・・・、そして、突然、瘧か何かのようにびよ〜ん、と跳ねて、激しく震えだし、「あっ」という間もなく、口から大量の白い、うねうねしたものを吐き出しました。
                  私は最初、みーにゃが内臓を吐いたのだと思いました。
                  それはむにゃむにゃと、動いていたからです。
                  みーにゃは、苦しそうにもがきながら、口から、血の混じった泡を吹いて、そしてやがてぴくぴくと痙攣するだけになり、そして動かなくなりました。
                  みーにゃが亡くなった原因は、母が虫下しを飲ませたことでした。
                  でもそれでなくても、みーにゃは早晩亡くなっていただろうと思います。
                  母から、みーにゃはお星さまになったのだと、聞かされて、ありきたりな話ですが、私は、今でも、夜空を見上げる時、みーにゃの星を探します。
                  あの子の目の色に似た、ちいさな星を。
                  「みーにゃへ、」と、毎日、
                  覚えたての文字でつづった、「みーにゃへの手紙」はちょうどこのブログみたいです。
                   
                  以上、「みーにゃの話」です。
                  虐待とは、まったく関係のない内容ですね(笑)。
                  よく、虐待を受けて育つと、虐待をする、って言うじゃないですか。
                  私が息子に向かって金切声をあげている、当時を振り返ると、私の背後に小さな女の子が見えるんですよ。
                  地団駄踏んで、癇癪をおこしている女の子が。
                  あれは多分、寂しかった私の子供の頃だなあ、と思って。
                  懺悔もあって、こうして振り返っているんですが。
                  振り返ってみればみるぼど、私の育った環境は、虐待とは程遠いですね。
                   
                  沢山の人の手を借りて、沢山の人の、その人たちなりの、「愛情」を貰っていたんだなあ、ということがわかります。
                   
                  私が息子に行った行為は、ただの甘えからくる、「虐待」です。
                  そこに、正当化される理由があるはずもありません。
                   
                  幼少期の私は、ただ、「寂しかった」。
                  周りの大人にそばにいてほしくて、気に入られたくて一生懸命でした。
                   
                  みーにゃがいなくなって、寂しいだろうと、両親が、「ヒマラヤン」という品種の子猫を買ってきてくれました。
                  私の両親はいつも、私が寂しいだろうと思って、いつでも、望むより早く、望むより多くの、お金と物を与えてくれました。
                  それが愛情なのだと思うことができるほど、私はまだ大人ではなかった。
                  今、私が帰宅すると目にする、自称「お祈りスペース」の可愛い子たち
                  白熊さんに乗っているネズミちゃんが見るたびに違う位置にいるのは、息子が動かしているのか、それとも・・・?
                   
                  だらだらと、続きます(笑)。
                  | 虐待について | 05:26 | comments(0) | - |
                  虐待2
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                    両親と一緒に暮らすのは、嬉しかったですが、同時に、不安もありました。
                    もう、2年以上もほとんど会っていませんでしたので、今から考えれば当然ですね。
                    私なりに、大分気を使っていたと思います。

                     

                    そのひとつに、幼稚園での出来事があります。
                    私は、送迎がきちんとしているという理由から、私立の幼稚園に通っていました。
                    当時、私の住んでいる地方では、私立の幼稚園って、少なかったんです。
                    私の通っていた幼稚園は、お金持ちの子が多い幼稚園で、園長先生も、なんだかいつも、「寄付金」「寄付金」って言ってるような感じでしたね(笑)。寄付金の多い少ないで子供のランクが決まる、みたいな。
                     
                    根暗で、びくびくおどおどしている私は、幼稚園児のみならず、先生たちにも疎まれていました。
                    お絵かきの時に私の座る席がなかったり、おやつの時間にわたしのおやつをほかの子が食べてしまっていることもよくありました。
                    それで私がもじもじしていると、先生に「ぐずぐずしないの。」とか、「もう自分の食べちゃったんでしょう。いやしい事言わないの。」と窘められた覚えがあります。
                    祖父母の家にいた時と違い、幼稚園での私は、「言葉を発することが怖い子供」になっていました。
                     
                    でも、祖父母はもちろん、母親も私が幼稚園を嫌がっていた記憶はなかったそうです。
                    なぜなら私は毎日、嬉しそうに園バスから降りてきて、毎朝楽しそうに、園バスに乗っていったからです。
                     子供心にも、自分がいじめられている、と言うのが恥ずかしかったのと、あと、変に行きたくない、とごねて、困らせたくなかった、という理由からです。
                     
                    両親と一緒に暮らすことになって、
                    私がほとんどしゃべらない子供だと知った両親は、私が、店の片隅か、控室にいることを許してくれました。
                    これは私にはとても嬉しいことでした。
                    幼稚園が終わってから、日が暮れるまでお店にいて、日が暮れたら歩いて少しの家に帰る。
                    帰ってから、母親が用意してくれてあるものを温めなおして食べるか、もしくは天丼、お寿司などの店屋物をとって食べます。
                    父親は、従業員の女の人と、ご飯に行ったり、旅行にいったりすることが多かったので、殆ど家にはいませんでした。
                    母親が返ってくるのは深夜になるので、その頃、私の家族はテレビでした。
                    ニュース、野球、大相撲・・・日曜日の夜は、「サザエさん」と、ドリフターズの「8時だよ全員集合」。
                    祖父が大好きで、いつも膝の上に乗ってご飯を食べながら見ていたテレビ番組です。
                    日曜日は特別な日で、祖父は自分の見たい番組を我慢して、私にサザエさんとドリフを見せてくれました。
                    日曜日、祖父の膝の上で見るドリフの面白かった事!
                     
                    その後小学生になって、こっそり、夜ご飯に日本酒を飲んでいましたが、それもお酒が好きと言うより、あの味を再び味わいたかったからだと思います。
                     
                    | 虐待について | 06:10 | comments(0) | - |
                    虐待1
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                      私は一人っ子です。
                      母は、専門学校を出た後、有名デザイナーさんのもとでニットデザイナーをしていました。
                      3才までの記憶なのであやふやですが、結婚後、家庭をまったく顧みない夫と、出産と前後して母親が長い闘病生活の末に他界。それに加えて産前産後にもストレスの多い仕事・・・、今、大人の私が振り返っても、ぞっとしない状況です。
                      クッキーを焼いてくれたり、公園で遊んでくれたり、楽しい記憶も沢山あります。
                      基本的に、明るい、子供好きな人だったので、そんな凄まじい状況でなければ、幸せな子育てをすることができた人だと思います。
                      加えて私も、憎む夫に瓜二つ、おまけに、赤ちゃんらしく、泣くことも、きゃきゃっと、声をあげて笑うこともしない赤ちゃんでした。
                       
                      3才になって、父が会社を起こし、店を始めることになって、両親は私の面倒を見ることが出来なくなり、
                      私は父方の祖父母に預けられることになりました。
                       祖父は、優しい人でしたが、親戚の会社の経理を担当していて、その上、息子の会社の経理もすることになって、忙しく、一日中、書斎にこもっていましたから、私の面倒をみるのは、家を取り仕切っている祖母でした。
                      祖母は、小さな子供が嫌いでした。
                      子供の声、子供の動き、子供の気配。
                      幸いにして、私は、いるのかいないのかわからないほどに薄い子供だったので、静かにしているのは、あまり苦にはなりませんでした
                      一度、駄々を捏ねて祖母を困らせた記憶があります。
                      多分、祖父母と暮らし始めて間もない頃だと思います。
                      母親に会えないのが寂しくて、ぐずぐずめそめそし始めた私に手を焼いて、祖母はそのまましばらく外出し、戻ってきたときには、両手に2.3の箱を抱えていました。
                      「お母さんに会いたい。」と泣く私の前に、
                      「ほら、これあげるからお母さんに会うのはあきらめなさい。」
                      と言って置かれたものは・・・なんと販促用のパッケージもろともの「チュッパチャップス」
                      (大きな、丸い、棒のついた、あの飴です。)
                      そして同じくひと箱丸ごとの「タケノコの里」「チョコボール」
                      祖母は多分、なだめる術を知らなくて、子供には甘いものを与えて置けばいい、と思ったんでしょうね。
                      私も一瞬、目の前に置かれたものの迫力に泣くのをやめましたが、別にお菓子が欲しくて泣いてたわけではないので、
                      お菓子に驚いたのもあり、再びしくしくと泣きはじめました。
                      祖母は、すごく頭にきたようで、何か怒鳴り、
                      「そんな子供には菓子はやらないよ。」か何か言って、目の前で台所の生ごみなどを入れるポリタンクの中に、箱のまま押し込みました。
                      ショックで、泣きやみました。
                      別に、お菓子が惜しかったとかではないです。実際、3才の子供にチュッパチャップスは大きすぎる気がしますしね。
                      ただ、食べ物だ、ということは知っていたのだと思います。
                      何がショックだったのか、具体的には覚えていないのですが、
                      自分に差し出された物、そしてそれが目の前で生ごみにまみれてしまうという事。
                      食べ物=もったいない
                      という考えが当時の自分にあったのかはわかりません。
                       でも、母が恋しいと、泣くようなことは以降なかったように思います。
                       
                      祖父は、昔気質の人でしたから、初孫である私が男の子ではないことにがっかりしていましたが、優しくしてくれました。
                      日中は書斎に籠って仕事しているので、会うのは夕食の時ぐらいでしたが、膝の上に乗っけてもらって、ご飯を食べていました。
                      祖父は熱燗を晩酌に飲んでいて、ある日、私に
                      「飲むか?」と聞いてきました。
                      私が、ペロリ、と舐めて、甘かったので、そのままごくり、と飲み込むと、
                      嬉しそうに祖父は笑って
                      「この子はいけるクチだぞ。」
                      と言ったのが嬉しくて、
                      それから毎晩のように、祖父のお膝でおちょこ1杯程度、日本酒を頂いていました。
                      こうして振り返ると、とても幸せな幼少期だったように思います。
                      祖父母は、戦争を経験している世代ですから、毎日安心して暮らすことができて、食べるものが沢山ある。
                      それだけで十分に幸せだと感じる世代だったはず。
                      ネグレクトや虐待などという概念はなかったでしょう。
                      命に係わる暴力がある場合、確かに虐待でしょう。
                      でも私が送った、赤ちゃんから幼少期の生活は、大人にも余裕がなかった。
                      決して虐待ではなかったと思います。
                      ネグレクト、精神的虐待というものは、時代によって概念が変わっていくのかもしれませんね。
                      私は実際に、手を上げられたことはありません。
                      大人しくしていなければというのも、私にはそう苦になることではありませんでした。
                      だから静かで、穏やかで、それなりに幸せな幼少期だったと思います。
                       
                      小学校に上がる少し前、両親に引き取られ、店舗の近くで一緒に暮らすことになりました。
                       

                      JUGEMテーマ:毒親

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